鶏が先か卵が先か

泥棒がはびこるから鍵屋が発展するのか、鍵屋が発展するから泥棒がはびこるのか。

人や社会の職人としての作曲家

芸術家は孤高であるべきか。
大芸術家には孤高の人が多い。だがそれは、社会や人と隔離して、自らの芸術に唯我独尊的に創り、生きていたということにはならない。彼らは社会や人に対する、鋭い洞察と深い愛を持っていた。そして憂い、問いかけ、投げかけた。真の意味で社会と人についての達人であったように思う。そうでないものは皆、やはりニセモノとまでは言わないが、少なくとも私は魅力を感じない。

 

芸術家である前に、まず職人でありたいと思い、常に目指してきた。芸術的であるより、まず作品をしっかりと作れるようになりたいと思ってきた。きちんとしたものを作れる職人でない者が、真の意味での芸術家にはなれないと思ったからだ。大作曲家たちも皆、職人作曲家ではなかったか。バッハは日曜日のミサのために、ハイドンは宮廷の演奏会のために、曲を書いた。モーツァルトも、ロッシーニも、依頼主のために台本通りにオペラを書いた。その他の大作曲家たちも、多少の差異はあろうが、自らの欲求と他者の欲求という矛盾との対決の果てに、名作を生み出してきたのだと思う。そしてそういう職人であるからこそ、社会や人としっかりとつながる芸術家になれるのだと思う。
自立してこそ、社会と融合できる。一見矛盾しているようだが、これこそ真理ではないだろうか。

 

「作品が演奏されることに重きを置く」
これは私の師の、作曲に対するひとつの哲学である。音楽が人と社会に対して貢献できることはたくさんあるだろう。しかし、貢献できるかどうかは相手の問題をも含む。作曲家という立場からできる、人や社会へのアプローチとして、これほど適切な言葉はないのではないか。そしてこれこそが、音楽が人と社会に関わるための、唯一の入り口ではないかと思っている。

やりきればいい?

ある有名な方の、こんなお話を又聞きした。

「やりきれば、それでいいんです」

その方の話はこうである。

会社の上司に焼肉に誘われた。しかし仕事がまだ残っている。ああ、どうしよう?と当然悩む。今日の仕事は今日中に仕上げなければならないという天使の声と、「仕事なんか明日にして〜」と焼肉に誘う上司に乗せられちゃえ、という悪魔のささやき。

 

あなたならどうするであろうか?

 

その方はこう答えた。

「仕事をやりきるもよし。焼肉を楽しみきるのもよし。どちらにせよ、要はやりきることのみが大事なんです」

 なるほどと思った。究極の満足は自己満足であることに異議はない。

 

ところが、最近こんな疑問が湧いてきた。

 

尊敬する音楽家の一人に、アラン・メンケンがいる。言わずと知れたディズニー映画の音楽などを数多く手がける作曲家である。

 

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彼の音楽作りの秘訣は、徹底的に「相手に合わせる」「相手の要求するものを提供する」であるらしい。有名になった今でも、そこを徹底的に追及されるそうだ。自分の音楽的要求よりも、求められている音楽的要求を満たすことに重点を置く。もちろんそこには自分の音楽性は色濃く反映されるはずであるが、決してそれを優先させないということである。

やりきればいい、という考え方と対局にある態度なのかもしれない。プロフェッショナルな職人気質である。私はどちらかというと、こちらの態度に共感する。こちらをやりきりたい、と思うのである。

あ、これもやりきることではあるが…。

蝶に憧れた蛾

蝶に憧れた蛾が、蝶の真似をして可愛らしく彼女に近寄っても、悲鳴とともに叩き落されるであろう。

自由な音楽、不自由な音楽

「人類は自由を求めてきた」
ある宴会の席で、作曲の師からこんな話が出た。
寒さや飢え、野生動物などの危険から自由になるための自然との闘い。豊かになるにつれ、財産が蓄積され、貧富の差が生じ権力が生まれた。支配層と被支配層が登場した。被支配層は支配と抑圧から自由になるために闘った。支配層は支配層で、より豊かで自由な暮らしと支配のために、代を継ぐ繁栄のために、掘り尽くし、切り倒し、汚し、殺し合ってきた。

 

未だあくなき自由を求める人々がいる反面、自由は行き着いたと感じ、自由から逃れようとする人々も現れた。自ら束縛を求め、信仰宗教に身を浸す人々。豊かな生活の中で、今度は精神的束縛を求めてゆく人々。中には精神を病み、自らの生命を絶ってしまう人々もいる。

 

 

師はこんな話から音楽の話に移られた。
演奏家は自由を求める」
あらゆる技術的制約から自由になること。これこそが演奏家と呼ばれる人々が指向する方向性だと師は述べられた。そのために闘う。

 

「作曲家は束縛を求める」
作曲家は自らを束縛と内省の中に求める。自らが決めたルールを守り、その中に美を求める。完全なるものを志向し、それこそが美を追求する道だと言い聞かせ、人にもそう語る。

 

 

ここで宴会の陽気な波に飲まれ、この話は終わったのだが、自分なりにこの続きをいろいろとこねくりまわしてみた。

 

「芸術は監督され、制限され、加工されることが多ければ多いほど自由になる」とはストラヴィンスキーの言葉だ。
と同時に、自由への欲望もあるものである。
「時には自由な幻想へ想いを馳せ、気ままに作曲してみたいものだ」
シューマンの言葉だが、彼は厳格な作曲技法を駆使しながらも自由な幻想を大切に扱った作曲家である。大変な葛藤があったのであろう。
たとえば自由な作曲家もいる。サティやドビュッシーなどはその部類に入るかもしれない。ただし、凡才が真似のできる芸当ではない。唯我独尊の道を行く作曲家もいらっしゃるだろうが、それもどうかと思う。
「作品が演奏されることに重きを置く」
これも師の言葉だが、できればそうありたい

 

何だかよくわからなくなってきた。

 

数日考えたり探したりしているとよい言葉に出会った。作曲家の別宮 貞雄さんが、この辺りのバランスをうまくおっしゃっていたので、この言葉でしめることにしよう。
「多くの作曲家は、素人の表現論者に対しては音楽の自律性、音そのものの完全性を主張するものであるが、そして作曲するにあたって意識の上ではそのつもりで努力するものであるが、それだけが全てではないということは知っているものである」

 

私の目指すべきもこれではないだろうか、というところに落ち着いた。

夢追い人

某有名スポーツメーカーのCM音楽を、知り合いが担当した。

演奏しているメンバーは作曲者を含めて4人。なんと、全員知り合いである。みんな頑張って、夢を実現させているんだなぁと、嬉しくなった。

 

高校時代、「音楽をやりたい」と両親に進路を打ち明けた時、父親は反対した。

「音楽なんかで食っていけるか」と。父親の反対を押し切って、勝手に受験の準備を進めた。母親の応援があった。

準備をしながら、やはり不安はあった。音楽で食っていくなんて、甘いものじゃないことはわかっていた。特殊な分野でもあるので、人生をやり直すことになれば、ゼロから、いやマイナスからのスタートになるだろうと思った。

それでも夢を追いたかった。音楽が好きで好きでたまらず、夢のためなら貧乏しても、のたれ死んでもいいと思った。受験の準備も、受かってからの大学の勉強も、人一倍頑張った。

 

それから数年後、初めて値段がついた作品を両親に聴かせた。母親はもちろん、父親も涙を流して「息子を誇りに思う」と喜んでくれた。

 

自分にとって音楽を続けることは、夢を追い続けることだ。夢に生き続けることだ。

仲間たちもそうなんだろうと思う。口に出されなくたってわかる。

みんな少しずつ、自分の夢を実現していっている。

仲間たちに恥ずかしくないように。これも私が頑張れる、大きなモチベーションになっている。

 

鮮烈なデビューもすべては蓄積だって、ちゃんとわかっている。

そこに飛躍はない。

日々の努力の積み重ねなのだ。

 

これからもずっと、「夢追い人」として生きてゆきたい。