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人や社会の職人としての作曲家

芸術家は孤高であるべきか。
大芸術家には孤高の人が多い。だがそれは、社会や人と隔離して、自らの芸術に唯我独尊的に創り、生きていたということにはならない。彼らは社会や人に対する、鋭い洞察と深い愛を持っていた。そして憂い、問いかけ、投げかけた。真の意味で社会と人についての達人であったように思う。そうでないものは皆、やはりニセモノとまでは言わないが、少なくとも私は魅力を感じない。

 

芸術家である前に、まず職人でありたいと思い、常に目指してきた。芸術的であるより、まず作品をしっかりと作れるようになりたいと思ってきた。きちんとしたものを作れる職人でない者が、真の意味での芸術家にはなれないと思ったからだ。大作曲家たちも皆、職人作曲家ではなかったか。バッハは日曜日のミサのために、ハイドンは宮廷の演奏会のために、曲を書いた。モーツァルトも、ロッシーニも、依頼主のために台本通りにオペラを書いた。その他の大作曲家たちも、多少の差異はあろうが、自らの欲求と他者の欲求という矛盾との対決の果てに、名作を生み出してきたのだと思う。そしてそういう職人であるからこそ、社会や人としっかりとつながる芸術家になれるのだと思う。
自立してこそ、社会と融合できる。一見矛盾しているようだが、これこそ真理ではないだろうか。

 

「作品が演奏されることに重きを置く」
これは私の師の、作曲に対するひとつの哲学である。音楽が人と社会に対して貢献できることはたくさんあるだろう。しかし、貢献できるかどうかは相手の問題をも含む。作曲家という立場からできる、人や社会へのアプローチとして、これほど適切な言葉はないのではないか。そしてこれこそが、音楽が人と社会に関わるための、唯一の入り口ではないかと思っている。

鎌倉・長谷寺

先日、鎌倉に写真を撮りに行ったのでご紹介。

 

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委嘱料の話

昨年末、ある作曲依頼を受けた。オーケストラと女性独唱、合唱付きの、10分を超える舞踊音楽。2ヶ月ほどで書き上げ、舞踊練習用の音源も作成し、1月の初めに先方に渡した。

それから1ヶ月半ほど、連絡がなかった。納品するまでは催促の連絡がひっきりなしであったが、納品した後は急に静かになった。

1ヶ月半後、たまたまその方とある会議で同席した。先方は私を呼び出し、封筒を渡した。なんと、中身は契約した委嘱料の半額であった。

「すみません、なにかと出費がかさんでいまして…」

私は受け取らなかった。なにかと出費がかさんだら、こちらとの契約は相談なしに勝手に変更してよいのだろうか。

事前に相談があれば、私は応じたであろう。しかし、相談もなしに決めつけてくるのは信義に反する。もし事前相談があり、本当に先方の難しさがわかれば無料でもよいのである。この場合はお金の問題ではない。契約と信義の問題である。その後、委嘱料はまだいただいていないが、どうなることやら…。

 

ピカソの有名なエピソードも紹介しておく。

 

tabi-labo.com

 

こうは書いているが、私は委嘱料について取り決めたり、しっかりいただくのがとても苦手である。一番ひどかったのは5分の音源制作(作曲)で、謝礼はなんと、お菓子の詰め合わせであった。音楽制作と委嘱料の関係は、たくさんの方々が悩んでいると思われるが、どうか苦労したぶんくらいはいただきたいものである。

PENTAX Q7

写真なんてスマホで十分だと思っていて、人にも公言していた私だが、最近実はカメラを購入した。「あいつ、あんなこと言ってたくせに」などと言われることなど何でもないのである。私は常に柔軟に変化していきたいのである。

 

虫のいい話だが、写真という芸術は実にいい。過ぎ去ってしまう時間や瞬間を止め、閉じ込めることができる。世界の美しさを見つけ、永遠にすることができるのだ。

 

まだまだ素人の域を出ないし(そもそも一生その域を出ない可能性の方がはるかに高いのだが)、お金も大してかけていないのだが、限られた条件の中でそれなりによい写真を撮るために勉強したりして楽しんでいる。

 

カメラを選ぶにあたっては、とにかく楽しいカメラがいいなと思い、PENTAX Q7というカメラを購入した。小さくて軽いくせに、一丁前にレンズ交換もでき、一眼レフ機並みにいろんな設定ができる。そして何よりレトロなデザインがおしゃれな、遊び心のあるやつである。

センサーサイズが1/1.7型と小さく、背面液晶も46万画素と、なかなかよろしくないところまで含め、愛着が持てる。

 

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レンズは、

01 STANDARD PRIME

02 STANDARD ZOOM

06 TELEPHOTO ZOOM

という3種類を揃えた。

これだけあればなかなか遊べる。

 

このブログでも、これから撮った写真を紹介することにする。

一体何のブログなのかわからなくなってきたが、そこは気にせず、気ままに書いて、載せていくことにする。

大人の階段

大人の味の代名詞といえば、コーヒーとビールである。子どもにとって、どちらも「苦いもの」の代名詞ではなかろうか。少なくとも私の場合はそうであった。

 

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親戚などの集まりで、よく子どもたちにビールを飲ませ、その苦そうな顔を楽しむおじさんがいた。なんだって大人はこんな苦いものを飲むのだろう、と子ども心に思ったものである。

コーヒーも然りである。缶コーヒーからコーヒーの世界に入った私は、長いことコーヒーに砂糖やミルクを入れて飲んでいた。ブラックで飲むものではない、と決めてかかっていたものである。

 

ところが、そのふたつの飲み物は、今となっては私の大好物である。飲み会では、周囲が焼酎やサワーに切り替えようが、生ビールを延々と飲み続ける。

コーヒーはもちろんブラック。アイスコーヒーも当然ブラックで飲む。美味しいコーヒーには目がない。

 

そうなってしまった経緯がある。

 

まずはビール。

晴れて成人となり、父親とお酒を酌み交わした時のこと。父親とビールの話題になった。正直、成人になったものの、当時ビールの苦味にはまだ慣れておらず、父親に聞いてみた。

「なぜ大人は、こんな苦いものを飲むの?」

「う〜ん、ビールは確かに苦いな。大人が飲んだって、そりゃ苦いさ。でもその苦味がいいんだよ」

「なぜ苦味がいいの?」

「ビールが苦いからこそ、食べ物の旨味が引き立つんじゃないか」

 

?!

 

この答えが私のビール人生を一発で変えてしまった。

なんという明快な答え!しかもビールの悲しさ!何と、ビールは主人公にはなれず、食べ物を引き立たせるためだけに自らを苦くしていたのか!

それからビールが好きになってしまった。もっとも、今は食べ物はなくとも、ビール自体の味もいつからか好きになってしまい、父親の言葉もちょっと違うのではないかと思っている。

 

次にコーヒーである。

ミルクと砂糖を入れた、甘いコーヒーを飲んでいた私に、ある日、上司が注意した。

「そんなんじゃ、コーヒーの本当の美味しさなんてわかんないわよ。コーヒーはね、味じゃなくて香りを楽しむの。下ではなくて鼻で味わうのよ。そんな風に飲んでみなさい」

果たして恐るおそるやってみると…。

なんと?!

今まで知らなかった、痺れるような香りが、口の中から鼻を通していっぱいに広がっていく!! 

 

 

かくして、私は大人への階段を登っていったのである。

やりきればいい?

ある有名な方の、こんなお話を又聞きした。

「やりきれば、それでいいんです」

その方の話はこうである。

会社の上司に焼肉に誘われた。しかし仕事がまだ残っている。ああ、どうしよう?と当然悩む。今日の仕事は今日中に仕上げなければならないという天使の声と、「仕事なんか明日にして〜」と焼肉に誘う上司に乗せられちゃえ、という悪魔のささやき。

 

あなたならどうするであろうか?

 

その方はこう答えた。

「仕事をやりきるもよし。焼肉を楽しみきるのもよし。どちらにせよ、要はやりきることのみが大事なんです」

 なるほどと思った。究極の満足は自己満足であることに異議はない。

 

ところが、最近こんな疑問が湧いてきた。

 

尊敬する音楽家の一人に、アラン・メンケンがいる。言わずと知れたディズニー映画の音楽などを数多く手がける作曲家である。

 

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彼の音楽作りの秘訣は、徹底的に「相手に合わせる」「相手の要求するものを提供する」であるらしい。有名になった今でも、そこを徹底的に追及されるそうだ。自分の音楽的要求よりも、求められている音楽的要求を満たすことに重点を置く。もちろんそこには自分の音楽性は色濃く反映されるはずであるが、決してそれを優先させないということである。

やりきればいい、という考え方と対局にある態度なのかもしれない。プロフェッショナルな職人気質である。私はどちらかというと、こちらの態度に共感する。こちらをやりきりたい、と思うのである。

あ、これもやりきることではあるが…。