蝶に憧れた蛾

蝶に憧れた蛾が、蝶の真似をして可愛らしく彼女に近寄っても、悲鳴とともに叩き落されるであろう。

自由な音楽、不自由な音楽

「人類は自由を求めてきた」
ある宴会の席で、作曲の師からこんな話が出た。
寒さや飢え、野生動物などの危険から自由になるための自然との闘い。豊かになるにつれ、財産が蓄積され、貧富の差が生じ権力が生まれた。支配層と被支配層が登場した。被支配層は支配と抑圧から自由になるために闘った。支配層は支配層で、より豊かで自由な暮らしと支配のために、代を継ぐ繁栄のために、掘り尽くし、切り倒し、汚し、殺し合ってきた。

 

未だあくなき自由を求める人々がいる反面、自由は行き着いたと感じ、自由から逃れようとする人々も現れた。自ら束縛を求め、信仰宗教に身を浸す人々。豊かな生活の中で、今度は精神的束縛を求めてゆく人々。中には精神を病み、自らの生命を絶ってしまう人々もいる。

 

 

師はこんな話から音楽の話に移られた。
演奏家は自由を求める」
あらゆる技術的制約から自由になること。これこそが演奏家と呼ばれる人々が指向する方向性だと師は述べられた。そのために闘う。

 

「作曲家は束縛を求める」
作曲家は自らを束縛と内省の中に求める。自らが決めたルールを守り、その中に美を求める。完全なるものを志向し、それこそが美を追求する道だと言い聞かせ、人にもそう語る。

 

 

ここで宴会の陽気な波に飲まれ、この話は終わったのだが、自分なりにこの続きをいろいろとこねくりまわしてみた。

 

「芸術は監督され、制限され、加工されることが多ければ多いほど自由になる」とはストラヴィンスキーの言葉だ。
と同時に、自由への欲望もあるものである。
「時には自由な幻想へ想いを馳せ、気ままに作曲してみたいものだ」
シューマンの言葉だが、彼は厳格な作曲技法を駆使しながらも自由な幻想を大切に扱った作曲家である。大変な葛藤があったのであろう。
たとえば自由な作曲家もいる。サティやドビュッシーなどはその部類に入るかもしれない。ただし、凡才が真似のできる芸当ではない。唯我独尊の道を行く作曲家もいらっしゃるだろうが、それもどうかと思う。
「作品が演奏されることに重きを置く」
これも師の言葉だが、できればそうありたい

 

何だかよくわからなくなってきた。

 

数日考えたり探したりしているとよい言葉に出会った。作曲家の別宮 貞雄さんが、この辺りのバランスをうまくおっしゃっていたので、この言葉でしめることにしよう。
「多くの作曲家は、素人の表現論者に対しては音楽の自律性、音そのものの完全性を主張するものであるが、そして作曲するにあたって意識の上ではそのつもりで努力するものであるが、それだけが全てではないということは知っているものである」

 

私の目指すべきもこれではないだろうか、というところに落ち着いた。

夢追い人

某有名スポーツメーカーのCM音楽を、知り合いが担当した。

演奏しているメンバーは作曲者を含めて4人。なんと、全員知り合いである。みんな頑張って、夢を実現させているんだなぁと、嬉しくなった。

 

高校時代、「音楽をやりたい」と両親に進路を打ち明けた時、父親は反対した。

「音楽なんかで食っていけるか」と。父親の反対を押し切って、勝手に受験の準備を進めた。母親の応援があった。

準備をしながら、やはり不安はあった。音楽で食っていくなんて、甘いものじゃないことはわかっていた。特殊な分野でもあるので、人生をやり直すことになれば、ゼロから、いやマイナスからのスタートになるだろうと思った。

それでも夢を追いたかった。音楽が好きで好きでたまらず、夢のためなら貧乏しても、のたれ死んでもいいと思った。受験の準備も、受かってからの大学の勉強も、人一倍頑張った。

 

それから数年後、初めて値段がついた作品を両親に聴かせた。母親はもちろん、父親も涙を流して「息子を誇りに思う」と喜んでくれた。

 

自分にとって音楽を続けることは、夢を追い続けることだ。夢に生き続けることだ。

仲間たちもそうなんだろうと思う。口に出されなくたってわかる。

みんな少しずつ、自分の夢を実現していっている。

仲間たちに恥ずかしくないように。これも私が頑張れる、大きなモチベーションになっている。

 

鮮烈なデビューもすべては蓄積だって、ちゃんとわかっている。

そこに飛躍はない。

日々の努力の積み重ねなのだ。

 

これからもずっと、「夢追い人」として生きてゆきたい。

才能にまつわる話

大学の後輩たちの前で講義をしたことがある。後輩と言っても、すでに皆さん大学を卒業し、音楽教師や学校の講師をしている方々である。ハーモニーとアレンジの、実技をともなう講義だった。

 

講義の後、懇親会となった。その席で、一人の若い女性の教師が私に絡んできた。かなり酒が入っている様子で、目が座っている。彼女はこう言った。

「先生(私のこと)は才能があるから、私みたいな人間の悩みなんてわからないでしょうね。才能のない人間は本当に日々悩んで、苦労してるんです。だれでも先生みたいに上手くできないんです」

相手は若い女性。もちろん言い返したりはしなかったが、この言葉は少々こたえた。

明らかに今日の講義でも実力不足が目立っていた彼女であったが、とても大切なことを忘れている。

今まで私が費やしてきた勉強量や努力、涙や徹夜の日々、大学卒業後も作曲や指揮のレッスンに通ったその過程を彼女は、

「才能」

という一言で片づけた。

私は自分の「才能」などまるっきり信じていない。それどころかコンプレックスの固まりのようなやつである。そして私が出会ってきた、本当に素晴らしい音楽家の方々は総じて、「才能」というものを信じていなかった。血の滲むような努力の末に、自分の音楽家としての土台を築きあげてきた方々ばかりだ。

 「才能」というものがあるとすれば、それは「音楽の才能」などではなく、「反省し、謙虚に学ぶ才能」「感激し、感動し、感謝する才能」「持続し、探求し、努める才能」…などなど、やはり人間性の根本に関係するものではないだろうか。

音楽する目的

学生の頃、よく先生や先輩に聞かされた言葉がある。

「何のために音楽をするのか」

音楽や芸術に限らず、物事というものは目的を持って行うことが多いであろう。人は求められることを欲する。承認欲求というものがある。それでなくとも、音楽には聴き手が必要だし、「よかった」と言われることは素直に嬉しい。私の音楽を求めてくれる方々がいてこそ、私は音楽家として存在できるのだ。

バッハは神のために、そして後世のために、音楽を書いた。ベートーヴェンは人類への自らの使命感を抱き、音楽の発展と人類愛を高らかに歌った。数多の大作曲家たちは、音楽の発展を自らの使命とし、過去の偉人たちの掘った泉を探索し尽くし、自らの新しい泉を発掘した。

母国の音楽や民族音楽、民謡に対する深い愛を、ショパンチャイコフスキーバルトークなどからも感じる。

低俗なものでは「名声のため」、「生活のため」というものももちろんあるだろう。

ホロヴィッツはかなりの年齢まで「女性にモテたい」という一心でピアノを弾いていたという話を聞いたことがある。

 

音楽は目的に奉仕する。

長年そう思っていたし、もちろん私にも自らの音楽を持って貢献すべき目的や場所がある。

 

ところがふと、こんなことを思った。

「好きだから、というだけでも音楽できそうだなぁ」と。音楽はそれ自体が目的となり得るのではないかと。

今作っている音楽を前に、ふと、これは求められているから作っていて、作っているうちに音楽を作ることが嬉しくなってきているのか、音楽をすること自体が嬉しくて、それを求められたから提供するのかわからなくなってきた。

ニワトリが先か、タマゴが先か、みたいな話であるが、もし後者であれば、音楽する目的とはずばり、音楽すること自体ではないか、とふと思ったのである。

音楽することはもちろん苦痛もともなうものであるが、そんなことを考えていると、何だか今日は音楽することが妙に楽しく、嬉しくなってきたのは気のせいだろうか。

大きな欲と小さな欲

「作曲家兼ピアニスト」とか、作曲家なのにピアニスト並みに弾ける人を見ると、大変羨ましく思う。私はピアノが苦手なのである。ブログのタイトルが『吾輩はピアノを弾く猫である。』にも関わらずである。

まあ職業柄、作曲はピアノを使って行うし、それなりに伴奏などもこなすし、音源制作の際の打ち込みなどに支障はない程度の技術はあるが、ピアノを始めたのが遅かったことや、人一倍あがり症なこともあり、ピアノには苦手意識がある。当然職業的ピアニストには遠く及ばない。

そういう意味でブログのタイトルもご理解いただきたいものである。ピアノが弾けないわけではなく、むしろピアノこそが商売道具である。

 

そして今年新たに、「ピアニストになりたい!」という無謀な目標を立てた。

私などがそんな大それたことを目標にするなど、ピアニストを職業にされている方々に申し訳ないとも思うが、別になれなくても一向に構わない。それくらいの決意でピアノを練習してみようということで、毎日練習を続けている。毎日続けてみて気づいたことがある。

 

小さな欲と大きな欲についてである。

たとえば「ピアニストになりたい!」という欲は途方もなく遠い目標である。大きな欲望である。しかし、大きな目標だけに、そこに至るまでの過程も当然遠い。ふと、大きな欲を持つと、小さな欲が淘汰されていくような気がしたのである。

生来のんびり屋である私だが、怠け者では決してない。

だが、それなりに休みも欲しいし、遊びもしたい。ある程度の物欲も当然ある。しかし、一旦「ピアニストになりたい!」と思い立ち、ピアノの練習に励んでいると、そっちの欲が大きくて、小さな、たとえば「休みたい」「遊びたい」「◯◯を買いたい」などという欲が淘汰されていくのを感じている。そんな暇があったらピアノを練習したい、と思い始めている。

 

驚くべきことである!

 

何かの記事で読んだが、人間が何かを習慣化するためには、66日間という時間が必要なのだそうだ。つまり、66日間続けたものは習慣化され、生活の一部となる。そしてそれは毎日続かなくてもよいそうである。途中できない日があっても構わない。そんなことは気にせず続けることが大事なのだそうだ。習慣化してこそ真の力がついていく。

 

またこうも思った。大きな欲を持たない者は、小さな欲にハマっていくのではないかと。「私もああなりたいなぁ」などと頻繁につぶやいているような人ほど、目標や計画を立てたり自分磨きを実践せず、物欲を発揮したり、ギャンブル熱を帯びたり、ワイドショーを見ながらお菓子を食べ続けたり、休日は日がな一日家でごろごろと転がっているような気がする。

大きな目標を持つ者は自分を磨き続ける。小さな目標しか持たない者は自分に磨きをかけず、安易に手に入る小さな欲に身を浸してしまうのではないか。されば巨大な欲望こそ、自分を磨き、質素な生活をもたらすのではあるまいか。

 大きな欲のことを、「夢」とか「志」などと呼ぶのではないか。

 

ピアノを練習しながらこんなことを思ったのである。

無駄な時間

最近、時間の使い方がうまくなってきたような気がする。なぜそう思ったかというと、「無駄な時間」を意識的に使えるようになってきたからだ。こういうと、なぜ?と思われるかもしれないが、実際に私の無駄な時間の使い方を書いてみようと思う。

 

まず時間というのは必ずしも同じように流れていないように思えてきた。私の過ごす時間の流れと、人の過ごす時間の流れはまるっきり違うのである。そんなことは当たり前だと思われるかもしれないが、たとえば私と誰かが喧嘩をしたとする。あれこれ考えているうちに(この辺で謝って仲直りしよう)と思い立つ。

しかし、喧嘩の相手はまた勝手が違うのである。私が仲直りしたいタイミングと、相手の仲直りしたいタイミングは違うのである。

早く仲直りすればいいのに、と思うのはまた自分勝手である。双方いろんなことを考え、感じ、時間とともにそれが熟成され、晴れて仲直りに行き着くのである。

その熟成を正すのが無駄な時間なのである。

 

何も喧嘩に限らない。作曲でも、五線紙とピアノに向かってうんうん唸っている時に限ってあまりよい楽想は浮かばない。自分の才能に絶望し、私にはもう作曲は無理かもしれない…などと諦めて帰路に着いた電車の中で、急に楽想がひらめくことも多々ある。これも熟成なのだろう。

いくら考えてもわからなかったことが、ある日突然理解できたりする。

 

マックス・ウェーバーが『職業としての学問』の中で、このような事例について見事な文章を残している。少し長いが引用する。

 

 

学者に必要なものは「情熱」である。個別の対象に集中的に取り組む「情熱」は、偉大な学問適正化につながる「インスピレーション」を生む。インスピレーションとは直観的なひらめき,霊感、おもいつき、瞬間的に思い浮かんだ着想のことを意味する。
 インスピレーションはまったく期待もしていないときに突然のように現れ、デスクに向かって詳しく調べたり探し求めたりしているときには現れないもの。しかし詳しく調べたり、探し求めていない人、そして「情熱」をもって探求していない人にインスピレーションは現れない。
 また、そうしたインスピレーションが訪れるかどうかも偶然なので学者はそれを受け入れなければならない。優れた仕事をしながら一度もインスピレーションに恵まれなかった人もいる。
 学者や芸術家だけではなく商人にも必要。「商人らしい想像力」がない人、独創的な思いつきに恵まれない人は、せいぜい社員か技師止まりで独創的な企画を考えるようなことはない。
 学問的な霊感は「才能」が必要であり、我々に理解できない「宿命(前世から定まっており,人間の力では避けることも変えることもできない運命)」のようなものが働いている。
 専門家とは対照的な存在として、「ディレッタント」という言葉がある。ディレッタントとは好事家、つまり芸術や学問を"趣味として"愛好する人を意味する。ディレッタントもインスピレーションを得ることがあるが、決まった作業様式を欠いているから、そのインスピレーションがどれほどの射程をもつのかきちんを位置づけをし、評価し、現実化することができない(重要)。
 また、「情熱」だけがあるだけでは駄目で、着実な「作業=労働(仕事)」が「情熱」と結合することによってインスピレーションを引き出すことができる。着実な「作業=労働(仕事)」は「学問」を経済と同じように「効率性」を追求しながら拡大するシステムを見ればいい。

 

 

つまり無駄な時間を過ごすだけではダメで、やはりそれについてしっかりと向き合う時間と無駄な時間の両方が必要なのである。

後の来たるべき理想の基礎を作る「作業の時間」と、それを熟成させるのに必要な「無駄な時間」。

最近、その両方の時間の使い方が本当にうまくなったと思う、今日この頃である。