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無駄な時間

雑記

最近、時間の使い方がうまくなってきたような気がする。なぜそう思ったかというと、「無駄な時間」を意識的に使えるようになってきたからだ。こういうと、なぜ?と思われるかもしれないが、実際に私の無駄な時間の使い方を書いてみようと思う。

 

まず時間というのは必ずしも同じように流れていないように思えてきた。私の過ごす時間の流れと、人の過ごす時間の流れはまるっきり違うのである。そんなことは当たり前だと思われるかもしれないが、たとえば私と誰かが喧嘩をしたとする。あれこれ考えているうちに(この辺で謝って仲直りしよう)と思い立つ。

しかし、喧嘩の相手はまた勝手が違うのである。私が仲直りしたいタイミングと、相手の仲直りしたいタイミングは違うのである。

早く仲直りすればいいのに、と思うのはまた自分勝手である。双方いろんなことを考え、感じ、時間とともにそれが熟成され、晴れて仲直りに行き着くのである。

その熟成を正すのが無駄な時間なのである。

 

何も喧嘩に限らない。作曲でも、五線紙とピアノに向かってうんうん唸っている時に限ってあまりよい楽想は浮かばない。自分の才能に絶望し、私にはもう作曲は無理かもしれない…などと諦めて帰路に着いた電車の中で、急に楽想がひらめくことも多々ある。これも熟成なのだろう。

いくら考えてもわからなかったことが、ある日突然理解できたりする。

 

マックス・ウェーバーが『職業としての学問』の中で、このような事例について見事な文章を残している。少し長いが引用する。

 

 

学者に必要なものは「情熱」である。個別の対象に集中的に取り組む「情熱」は、偉大な学問適正化につながる「インスピレーション」を生む。インスピレーションとは直観的なひらめき,霊感、おもいつき、瞬間的に思い浮かんだ着想のことを意味する。
 インスピレーションはまったく期待もしていないときに突然のように現れ、デスクに向かって詳しく調べたり探し求めたりしているときには現れないもの。しかし詳しく調べたり、探し求めていない人、そして「情熱」をもって探求していない人にインスピレーションは現れない。
 また、そうしたインスピレーションが訪れるかどうかも偶然なので学者はそれを受け入れなければならない。優れた仕事をしながら一度もインスピレーションに恵まれなかった人もいる。
 学者や芸術家だけではなく商人にも必要。「商人らしい想像力」がない人、独創的な思いつきに恵まれない人は、せいぜい社員か技師止まりで独創的な企画を考えるようなことはない。
 学問的な霊感は「才能」が必要であり、我々に理解できない「宿命(前世から定まっており,人間の力では避けることも変えることもできない運命)」のようなものが働いている。
 専門家とは対照的な存在として、「ディレッタント」という言葉がある。ディレッタントとは好事家、つまり芸術や学問を"趣味として"愛好する人を意味する。ディレッタントもインスピレーションを得ることがあるが、決まった作業様式を欠いているから、そのインスピレーションがどれほどの射程をもつのかきちんを位置づけをし、評価し、現実化することができない(重要)。
 また、「情熱」だけがあるだけでは駄目で、着実な「作業=労働(仕事)」が「情熱」と結合することによってインスピレーションを引き出すことができる。着実な「作業=労働(仕事)」は「学問」を経済と同じように「効率性」を追求しながら拡大するシステムを見ればいい。

 

 

つまり無駄な時間を過ごすだけではダメで、やはりそれについてしっかりと向き合う時間と無駄な時間の両方が必要なのである。

後の来たるべき理想の基礎を作る「作業の時間」と、それを熟成させるのに必要な「無駄な時間」。

最近、その両方の時間の使い方が本当にうまくなったと思う、今日この頃である。