音楽する目的

学生の頃、よく先生や先輩に聞かされた言葉がある。

「何のために音楽をするのか」

音楽や芸術に限らず、物事というものは目的を持って行うことが多いであろう。人は求められることを欲する。承認欲求というものがある。それでなくとも、音楽には聴き手が必要だし、「よかった」と言われることは素直に嬉しい。私の音楽を求めてくれる方々がいてこそ、私は音楽家として存在できるのだ。

バッハは神のために、そして後世のために、音楽を書いた。ベートーヴェンは人類への自らの使命感を抱き、音楽の発展と人類愛を高らかに歌った。数多の大作曲家たちは、音楽の発展を自らの使命とし、過去の偉人たちの掘った泉を探索し尽くし、自らの新しい泉を発掘した。

母国の音楽や民族音楽、民謡に対する深い愛を、ショパンチャイコフスキーバルトークなどからも感じる。

低俗なものでは「名声のため」、「生活のため」というものももちろんあるだろう。

ホロヴィッツはかなりの年齢まで「女性にモテたい」という一心でピアノを弾いていたという話を聞いたことがある。

 

音楽は目的に奉仕する。

長年そう思っていたし、もちろん私にも自らの音楽を持って貢献すべき目的や場所がある。

 

ところがふと、こんなことを思った。

「好きだから、というだけでも音楽できそうだなぁ」と。音楽はそれ自体が目的となり得るのではないかと。

今作っている音楽を前に、ふと、これは求められているから作っていて、作っているうちに音楽を作ることが嬉しくなってきているのか、音楽をすること自体が嬉しくて、それを求められたから提供するのかわからなくなってきた。

ニワトリが先か、タマゴが先か、みたいな話であるが、もし後者であれば、音楽する目的とはずばり、音楽すること自体ではないか、とふと思ったのである。

音楽することはもちろん苦痛もともなうものであるが、そんなことを考えていると、何だか今日は音楽することが妙に楽しく、嬉しくなってきたのは気のせいだろうか。